営業終了前のソルノワールは、少しゆるくて、落ち着いている。 夕方の営業時間を終え、キッチンからは洗い物の音だけが響き、窓から差す光が店内に静かなリズムをもたらしていた。
「村田。ちょっと時間いいか?」
カウンターの中から声をかけてきたのは、店長・武藤直樹。 不愛想な言い方だが、不思議とあたたかい響きがある。
「はいっ」
ホール内の清掃をしていた村田陽向は、思わず背筋を伸ばす。
店の奥、事務室と呼ぶには狭すぎる二畳のスペース。 そこに並ぶ折りたたみ椅子にふたり並んだ。 壁にはスケジュール表。目を凝らせば、ふざけたイラストや走り書きも見える。
「村田が入って、もう一か月か」
「……はい」
「どうだ、慣れたか?」
「いえ……まだ。みんなには迷惑かけっぱなしですし……」
武藤は鼻を鳴らした。
「そんなことはどうでもいい。……いや、ちょっとは気にしろよ。ほめるとすぐにやらかすからな」
「すみません……」
村田はうつむく。言葉が喉の奥で、泡のように消える。
(この返事でよかったのか……? でも、素直に話せるのはありがたい)
「それで、寝れてんのか」
「はい、最近は薬があればなんとか寝れる程度にはなりました」
武藤の手が止まった。
「そっか。……それは、よかった」
その声は、少しだけ、やさしくなっていた。
「今日みたいな雨の日は特に、きついなら言ってくれれば休みにできるし、ミスもだいぶなくなってきている。 俺はいい兆しだと思っているし、このまま使用期間を終え、社員として正式に雇いたいと考えている」
「ありがとうございます。」
「話は変わるが、半ば勢いでカフェで働くことに、不安とかなかったか?」
「……いえ、まったく。それよりも前の職場から解放される!って気持ちが強かったです」
ふと、村田の目線が下がる。 (でも──今の自分が、他人からどう見えているのかを考えると、やっぱり……)
「そうか、そう言ってくれるのはうれしいが、無理はするな。 明日は、定期健診だろう。医者と話して、もし何かあれば言ってくれ。 俺たちは村田が働いてくれてて助かっているからな」
武藤は、そういうとコーヒーを一口飲む。
「それと、ここでは自分にうそをついてまで働かなくていい。仕事面以外でも何かあれば採用した日のように、俺か工藤さんに話してくれ」
村田は、ゆっくりと、うなずいた。 「はい」
すこし、間が空いて、たまったものが抜けていくような返事だった。
──こんなふうに話せたの、いつぶりだろう。
事務所を出たふたりを、カウンター越しに工藤が出迎えた。
「おやおや、秘密の逢瀬は終わりですか?」
「はい。先ほど。」
「では、村田くん。次は私の方に付き合ってくれるかな。 今回からドリップ方法を変えてみようかと思ってね。」
「それはまた、どんな心境の変化で?」
「いえ、ただ経費から出すための言い訳ですよ、武藤くん。 あなたも1杯いかがですか。」
「そこまでケチじゃねぇよ、俺は。たく、俺は残ってる水出しがあればそれをもらおうかな」
「ドリップの練習と言っているのにひどいお人ですな。さて、村田くんは何にしますか?」
「あー、えぇっと」
「……あー工藤さん、俺はいつものコロンビアの浅め、村田にはグァテマラの深めで」
「まったく、注文の多いレストランですね」
「そこまで多くはねぇだろ」
笑い声が、ほんの少しだけ、柔らかく広がった。
「それから、村田。こういう時は、気にせず好きなものを頼め。 水出しの残りは良ければ持って帰って明日にでも飲んでくれ、ちょうど2杯分はあるんだろ?」
「はいっ、ありがとうございます。」
武藤は厨房へ向かいながら、ぶっきらぼうに言った。
「工藤さん、俺角砂糖2つとミルク多めで」
「武藤なのに甘党とは」
「名前は関係ないだろ!」
ソルノワール。それは、静かであたたかくて、少しだけ前を向ける場所だ。
コメント